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映像考

今更ながらの。。。

映像制作って、難しそうに見えて意外と身近なものです。

今回は「渡鬼にハマる理由を、映像制作者的に見た」というテーマでお話しします。

どうも、藤田です。

最近、休憩時間に今更ながらに、ふと見始めた『渡る世間は鬼ばかり』。まだAI橋田壽賀子まで辿り着けておりませんが、、、

ほんと何気なく見始めたつもりが、気づけば、次のエピソードが気になっている自分がいる。どうにも気になる作品。

令和のコンプライアンスでは、ありえないストーリーや、男尊女卑の言動、理不尽な暴力・・・毒にも薬にもならない、尖っていてもその先端はしっかりとヤスリの当たっているドラマが増えた中でかなりの刺激です

まず映像的には、特筆すべき技術や演出があるとは言えません。無駄にに動かさないカメラ、奥ピンで人物がボケてるのは日常的、主観を排した構図、シーズンを重ねよりフラットになった照明。

「肝っ玉かあさん」「ありがとう」の流れですかね。

その画面は一見地味ですが、むしろ「観る」より「聴く」に重きを置いた設計と言えるかもしれません。

たとえば、主婦層が家事をしながら見られるように、セリフは過剰なくらい説明的。人物関係や状況が繰り返し語られるので、初見でも置いていかれない。一言一句を追う必要もないし、数話見逃しても取り残されることはない。

登場人物たちは、常に何かと衝突しています。世代の価値観の違い、親子の距離感、夫婦の思いやりのズレ。にもかかわらず、誰かを完全な“悪者”にしないんです。

理不尽な展開にも、登場人物たちは怒りをぶつけるというより、“受け入れて、やり過ごす”。そこに視聴者のイライラも生まれる一方で、妙な“リアリティ”がある。そして、この“わかり合えなさの積み重ね”こそが、このドラマの粘着力を生んでいる。誰もスッキリ解決しないまま、日々が続いていく。

でも、それって実際の社会や職場も同じですよね。製造現場でもオフィスでも、人の想いは噛み合わない。でも、続けるしかない。だから『渡鬼』は、極端にドラマチックなのに、“誰かの現実”に見えるんです。

橋田壽賀子の脚本術には、あえて“整理しすぎない”巧妙さがあります。セリフが説明的なのに、感情の決着はつけない。見る側に「どう思う?」を投げかける設計。視聴者に“解釈の余白”を渡しているわけです。

そして何より、『渡鬼』には“積み重ねの魅力”があります。あの登場人物たちが、何年も前から悩み、考え、変わっていった、そして変わらない軌跡が、まるごと詰まっている。だからこそ、ふと見始めた回でも「この人、こんなふうに変わったんや」「何年同じことしてるねん」と感じることができるんです。視聴者と共に年を重ねるような感覚。それが、他のどんなドラマとも違うところだと思います。

ある意味で『渡鬼』は、「物語」よりも「人の時間そのもの」を見せる作品なのかもしれません。大きな事件があってもなくても、登場人物たちは今日を生きている。嬉しさも苦しさも、言葉にならない感情も、ただカメラの前に流れていく。その静かな積層が、見る人の心を打つのだと思います。

私たち映像制作者は、どうしても見栄えの良さや構成美を重視しがちです。でも『渡鬼』に触れると、逆に“何もしない”ことで伝わることの強さを思い知らされます。たとえば、空気のゆらぎ、言葉の間、言い淀み——。そういった要素が、誰かの気持ちを動かす映像を作る鍵になるのではないかと思います。

映像の仕事に携わる者として、『渡鬼』には不思議な敬意があります。映像の最先端にいるわけではないのに、時代に取り残されることなく、多くの人の記憶に残っている。人間関係の繊細さ、感情の矛盾、そのすべてを“静かに肯定する”ような強さを持っている作品です。

『渡鬼』は、非常に“映像的でない”作品です。でもそこに、映像が目指すべき“温度”があると感じさせてくれました。情報や派手な演出ではなく、「共感できるかどうか」が、伝わるかどうかの境界線。

これからも、派手さよりも“空気”を映せるような映像を届けていきたいと思います。


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